南北朝の合一 (日本史018)
◎南朝と北朝
1338年、光明天皇に征夷大将軍に任じられた足利尊氏は京都に幕府(室町幕府)を開いた。
いわゆる「建武の新政」に失敗し、吉野(奈良)に逃れた後醍醐天皇は、そこに皇居を置いて、天皇政治を続けた。
ここに、二つの朝廷が存在する時代が始まる。京都の朝廷を北朝、吉野の朝廷を南朝といい、足利義満によって南北合一がなるまでのおよそ、半世紀にわたる時代を『南北朝時代』という。
南北朝の対立は、足利尊氏が有力な守護を味方につけていったため、しだいに北朝(幕府側)側が優勢になった。南朝側の中心人物北畠親房(きたばたけちかふさ)が病死したため、味方の武士も減り、しだいに勢いを失っていた。
足利氏は、尊氏の死後も幕府の基盤を固めていき、1392年、尊氏の孫の義満のときに、南北両朝の和解が成立し、朝廷はひとつになった。
歴史的できごと・・・・『南北朝が統一される』
起こった年号・・・・1392年
年号の覚え方・・・・秘策(ひさく)に 負けた 南北合一
1338年、光明天皇に征夷大将軍に任じられた足利尊氏は京都に幕府(室町幕府)を開いた。
いわゆる「建武の新政」に失敗し、吉野(奈良)に逃れた後醍醐天皇は、そこに皇居を置いて、天皇政治を続けた。
ここに、二つの朝廷が存在する時代が始まる。京都の朝廷を北朝、吉野の朝廷を南朝といい、足利義満によって南北合一がなるまでのおよそ、半世紀にわたる時代を『南北朝時代』という。
南北朝の対立は、足利尊氏が有力な守護を味方につけていったため、しだいに北朝(幕府側)側が優勢になった。南朝側の中心人物北畠親房(きたばたけちかふさ)が病死したため、味方の武士も減り、しだいに勢いを失っていた。
足利氏は、尊氏の死後も幕府の基盤を固めていき、1392年、尊氏の孫の義満のときに、南北両朝の和解が成立し、朝廷はひとつになった。
歴史的できごと・・・・『南北朝が統一される』
起こった年号・・・・1392年
年号の覚え方・・・・秘策(ひさく)に 負けた 南北合一





